杉原凱先生は文化3年 (1806)、 会津の上級藩士の家に生まれまし た。 幼い頃から文学に励み、 会津藩の儒学者 「安部井帽山」に師事しま す。 若くして学業を修了した杉原先生は、 会津で私塾を開きますが、 入塾を 求める者が後を絶たず、 子弟の数は優に百名を超えたと言われます。 『會津藩教育考』 に掲載された杉原先生の項に 「学館より講釈所に及第せん とする者は凱に従はざるものなし」とあり、学者としての高い人気がうか がえます。天保の末頃 (1840年頃)、 杉原先生は日新館の学館預(教授) に抜擢され、藩の 人材育成を任されます。 後年、医学師範補助の役を受けてからは本草科に身を置き、やがて医学師範となります。 なお、 会津藩主松平容保の侍医だった馬島瑞園は杉原先生の弟子にあたります。

慶応4年(1868) に起こった戊辰戦争で会津が戦渦に巻き込まれた際、 杉原先生が長年勤めた日新館は焼け落ち、 教えの場を失ってしまいます。 戊辰戦争後、 会津藩が斗南藩に改められ旧会津藩士たちが移住する際、 杉原先生は三戸に居を定めます。 ここでも杉原先生は、後進を育てるための塾を 開こうとしますが、明治4(1871)年2月14日、突如亡くなります 。享年66歳。

杉原先生の死後、 教え子たちは師の精神を受け継ぎ青森県の教育界へと 進出、やがて彼らは本県の近代教育発展に大きく寄与することになります。明治19年(1886) 、杉原先生を慕う沖津醇 (青森師範学校長) や渡部乕次郎(三戸 小学校三代目校長)をはじめ多くの弟子が集まり、 師を弔うためにこの墓碑を 三戸大神宮境内へ建立しました。
※「凱」とは諱で、 通名は外之助です。